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マレーシアより愛をこめて 第18回

ガスパールのマイレージ、マイライフ

働く場所と、住む場所と、
育てる場所

分身がいれば、三つは別々の国に置ける

前回、530万円のMacを「分身」と呼んだ。机の上に分身がいれば、会社のボトルネックだった経営者の頭の詰まりが抜け、できることの桁が一つ変わる。では、その机は、どこに置けばいいのか。答えは、意外とあっさりしている。どこでもいい。ただし、どこにでも住めるわけではない。

ガラスの天井から滝が流れ落ちる、緑に囲まれた空港の吹き抜け
シンガポール・チャンギ空港の「ジュエル」。高さ約40メートルの室内の滝と、森がある。ここまで来ると、空港は乗り継ぎ地点ではなく、住所の一つである。 Photo: Matteo Morando, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

三つの場所は、いつも一緒だった

これまで、住む場所と、働く場所と、子どもを育てる場所は、たいてい同じ町にあった。会社に通える範囲で家を探し、学区で家を選ぶ。職住近接という言葉まである。三つの場所は三位一体で、一つの町に縛られていた。

中国の故事に、孟母三遷という言葉がある。孟子の母が、息子の教育のために、住む場所を三度変えた話だ。墓地の近くに住めば、息子は葬式ごっこばかりする。市場の近くに移れば、商売のまねばかりする。学校の近くに越して、ようやく勉強を始めた。教育移住の元祖である。ただ、孟母が引っ越したのは、同じ町の中だった。国ごと選べる今の親は、孟母より、少しだけ恵まれている。もし孟母がAIの分身を持っていたら、四度目の引っ越しは、国境を越えていたかもしれない。

もっとも、孟母が教えてくれるのは、引っ越しの回数ではない。場所が、子どもをつくるということだ。墓地の近くでは葬式を、市場の近くでは商売を、学校の近くでは勉強をまねた。子どもは、言われたことではなく、周りにあるものをまねる。住む場所を選ぶことは、子どもが何をまねて育つかを選ぶことでもある。

分身が、三つをほどいた

分身が机の上にいれば、働く場所は「どこでも」になる。仕事はネットワークの上で回り、細々とした用事は分身が引き受ける。すると、住む場所と子育ての場所を、好きな国で選べるようになる。三位一体が、ほどけるのだ。

芭蕉は『奥の細道』の冒頭で、月日は百代の過客、つまり永遠の旅人だと書いた。この一節は、李白の「光陰は百代の過客なり」を下敷きにしている。芭蕉はさらに、日々旅にして旅を栖とす、と続ける。旅を住まいにする人。三百年以上前に、芭蕉はもう、住む場所と働く場所を分けていたのだ。もっとも、芭蕉の分身は、弟子の曾良だったが。

座って前を見つめる、墨染めの衣の松尾芭蕉の肖像画
門人の杉山杉風が描いた松尾芭蕉。旅を栖とした人の顔は、意外と落ち着いている。 Photo: Sugiyama Sanpū, Public domain, via Wikimedia Commons

分身と一緒に、国境を越える

国境をまたいで働くとき、手元で動く強力なAIは、思っている以上に頼りになる。

まず、ネットが無くても働ける。分身はクラウドの向こうではなく、カバンの中のMacBook Proに住んでいる。7時間半のフライトも、電波の弱いホテルも、そのまま仕事場になる。昔、機内は映画を観る場所だった。今は、分身と打ち合わせをする場所である。機内食のメニューだけは、分身より先に確認するが。

次に、機密を連れて歩ける。日本の取引先の資料を、外国のサーバーに預けずに、手元だけで読み、まとめ、下書きを書ける。国境を越えても、データは国境を越えない。もちろん、法律の上の守秘義務は、どこにいても消えないが。

そして、言葉の壁が低くなる。日本語の契約書を英語で要約し、中国語のメールに日本語で目を通し、マレー語の役所の書類の意味を確かめる。誰の母国語でもない英語の国で、分身は、誰の母国語でも読む。

さらに、時差を味方にできる。私が寝ているあいだに、分身は昨日の資料を整理し、朝いちばんの返信の下書きを用意しておく。時差1時間の東京とクアラルンプールのあいだで、仕事は、ほとんど眠らずに流れていく。

最後に、外の事情に振り回されにくい。クラウドのAIは、規制や障害や料金の変更で、ある日突然使えなくなることがある。手元の分身は、少なくとも電源とバッテリーがある限り、黙って働き続ける。ただし、分身ごと税関を通るので、ディスクの暗号化だけは忘れずに。入国審査で、分身の中身まで説明する羽目になるのは、ご免こうむりたい。

なぜ、マレーシアなのか

三つをほどいたとして、どこに住むか。日本人の答えは、長いあいだ決まっていた。ロングステイ財団の「ロングステイ希望国・地域」の調査で、マレーシアは2006年から2024年まで18年連続で1位、2025年も1位。そして財団のほうが、2026年3月に幕を閉じてしまった。ランキングが、1位を残して先に引退したのである。

ロングステイ希望国・地域でのマレーシアの順位の推移日本人が「ロングステイしたい国」マレーシアの順位ロングステイ財団「ロングステイ希望国・地域」。グラフにすると、ただの横線になる1位2位3位4位5位200620102015202020252006年から、ずっと1位(2位から5位は、ずっと空き部屋)出所:ロングステイ財団の発表と各種報道。2024年まで18年連続、2025年も1位。財団は2026年3月末で事業を終了
「ロングステイしたい国」のマレーシアの順位。ずっと1位なので、グラフが心電図ならとっくに医者が呼ばれている。

理由は、いくつもある。

まず、日本との時差が1時間しかない。東京の朝9時は、クアラルンプールの朝8時。会議の時間を合わせるのに、誰も早起きも夜更かしもしなくていい。分身は寝ないが、人間は寝る。時差1時間は、人間のための福利厚生である。

次に、英語が通じる。第16回で書いたとおり、誰の母国語でもない英語が、みんなの共通語になっている国だ。

次に、大きな自然災害が少ない。地震も台風も、ほとんど無い。雨季の洪水はあるが、少なくとも、夜中に揺れで飛び起きることはない。地震の国から来た身には、それだけで、ずいぶん眠りが深くなる。

医療の水準も高い。クアラルンプールの私立病院には、海外から治療を受けに来る人も多い。治安も、アジアの中では比較的よいほうだ。ひったくりには、気をつけるとしても。

食べ物は、民族の数だけある。マレー料理、中華、インド料理に、アジアの食材はほとんど揃い、日本の食材も手に入る。私のように寿司に興味の無い人間でも、毎日の昼ごはんに迷う。迷えるのは、幸せなことだ。

そして、日本に好意的な人が多い。1980年代の初め、マハティール首相は「日本に学べ」というルックイースト政策を掲げ、大勢の若者を日本へ送り出した。その世代が、今、社会の中心にいる。日本人だと名乗ると、少しだけ得をする国である。

ほかにも、一年中夏なので冬服が要らない。インターナショナルスクールの数が多く、学校を選べる。日本への直行便も、毎日飛んでいる。

そして、国外で稼ぐ人にとっては、税の扱いも気になるところだ。マレーシアの居住者が国外で得た所得は、元の国で課税済みであれば、2036年までマレーシアでは非課税とされている。

高い天井の下に動く歩道が続く、空港ターミナルの長い通路
クアラルンプール国際空港の第1ターミナル。設計は黒川紀章で、「森の中の空港」という構想だった。私にとっては、家と会社のあいだにある、長い廊下である。 Photo: No Swan So Fine, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

マレーシアの、困ったところ

もちろん、いいことばかりではない。まず、アジアの中では、日本から少し遠い。台湾や韓国なら数時間のところ、クアラルンプールまでは7時間ほどかかる。週末だけ日本に帰る、とはいかない。

東京からの飛行時間と時差遠いけれど、時差は1時間東京からの直行便のおおよその飛行時間と、日本との時差(冬時間)0時間-2時間-4時間-6時間-8時間-10時間0時間3時間6時間9時間12時間15時間飛行時間(目安)→ソウル台北香港マニラバンコクシンガポールクアラルンプールドバイロンドン飛行時間は航空各社の直行便のおおよその目安。ロンドンは冬時間の時差
東京からの飛行時間と時差。クアラルンプールは7時間半かかるが、時差は1時間。色の付いた帯が「時差0〜1時間」の国々だ。

ただ、グラフにしてみると、面白いことに気づく。遠さのわりに、時差がほとんど無い。7時間半飛んで、時計の針は1時間しか戻らない。体は遠くへ行くが、仕事の時間はほとんど東京のままだ。

イスラム教の国なので、暮らしの決まりごとも違う。お酒は税金が高く、どこでも飲めるわけではない。お酒好きは、家計簿を見て青ざめることになる。私は飲まないので、ここだけは高みの見物だ。豚肉も、ハラルの店や売り場には置いていない。華人の店や、スーパーの専用の売り場で買うことになる。

それに、暑い。一年中、暑い。乾季には、近隣国の野焼きの煙が流れてきて、ヘイズで空が白くかすむこともある。冬服は要らないが、日傘は要る。

それでも、国境はついてくる

とはいえ、働く場所がどこでもよくなっても、国境は消えない。

まず、ビザだ。正直に書くと、マレーシアに住みたくても、住めない人のほうがずっと多い。数字にも出ている。行きたい国は18年連続で1位なのに、実際に住んでいる日本人は、2020年の約3万1,000人をピークに、2024年には約2万人まで減った。コロナ禍の影響もあるが、行きたい国の1位と、住めている国の1位は、別の話なのだ。

マレーシアに住む日本人の数の推移行きたい国は1位、住んでいる日本人は3割減マレーシアの在留邦人数(各年10月1日)01万人2万人3万人約26,701201930,973202027,256202124,545202220,657202320,0252024過去最多出所:外務省「海外在留邦人数調査統計」。2019年は2020年の前年比(+16.0%)からの逆算在留届を出していない人は含まれない
マレーシアに住む日本人の数。2020年をピークに、2024年には約2万人まで減った。行きたい国の1位と、住めている国の1位は、別の話である。

ビザの種類は多いが、どれも簡単ではない。

長期滞在のMM2Hは、5年のシルバーでも15万ドル、20年のプラチナなら100万ドルの定期預金が要り、そのうえ働いたり事業をしたりできるのはプラチナだけだ。20年住めて働くこともできるPVIP(プレミアム・ビザ)は、国外からの月収4万リンギット以上と、100万リンギットの定期預金に加えて、本人20万リンギット、家族は一人10万リンギットの参加費がかかる。夫婦と子ども二人なら50万リンギット、約1,900万円だ。定期預金は自分のお金のまま残るが、参加費は戻ってこない。払った瞬間に、サンクコストになる。経営者なら誰でも知っている、いちばん痛い種類のお金である。起業家向けにMDEC(マレーシア・デジタル経済公社)が運営するMTEPは、IT分野の起業家に限られ、実績のない新規の起業家は1年ごとの更新だ。デジタルノマド向けのDE Rantauは、比較的取りやすい代わりに、基本は最長2年ほどで、腰を据えて暮らすには心もとない。どの扉にも、それぞれ重い鍵がかかっている。しかも鍵は、たいてい銀行の金庫の中にある。

長期滞在ビザに必要なお金預けるお金と、消えるお金長期滞在ビザに必要な定期預金と、戻らない参加費(万円)定期預金(自分のお金のまま)参加費(戻らない)MM2H シルバー5年2,367万円MM2H ゴールド15年7,890万円MM2H プラチナ20年・就労可1億5,780万円PVIP20年・就労可、家族4人3,840万円+1,920万円1ドル=約157.8円、1リンギット=約38.4円(2026年10月下旬)で換算。MM2Hは別に住宅の購入が必要PVIPの参加費は本人20万、家族一人10万リンギット。申請手数料などは含まない
長期滞在ビザに必要なお金。灰色は自分のお金として残るが、金色は払った瞬間に消える。経営者の胃が、いちばん痛むのは金色のほうだ。

子どもの学生ビザに付く保護者向けのビザも、第15回で書いたころから少し動いて、両親二人に出る仕組みができた。ただ、対応する学校はまだ少ない。しかも、二人目の保護者のビザが下りるまでの時間があまりに長く、待つあいだのストレスで参ってしまう親もいる。ビザの話は、また別の回でじっくり書きたい。

運よく住めたとしても、税金は、どこに住んでいるとみなされるかで変わる。会社も、経営者がどこで仕事をしているかで、どこの国の会社とみなされるかが揺れる。日本とマレーシアの両方の専門家に、早めに相談したほうがいい。ここだけは、分身に任せきりにしないほうがいい。

そして子どもは、国境より学校の暦に縛られる。第14回で書いたとおり、マレーシアの学校は、祭りのたびに休みが延びる。親の分身は時差を越えられても、学校の休みは越えられない。

私の場合

私自身、ふだんはマレーシアかシンガポールに居て、日本には1か月半に1回ほど戻る。住むのはマレーシア、子どもの学校もマレーシア、会社の本社は東京の銀座、そして仕事は世界のあちこち。三つの場所どころか、四つに分かれている。

自虐を言えば、私がいちばん長く過ごしている場所は、家でも会社でもなく、飛行機の座席かもしれない。少なくとも、よく乗る便の便名と、空港の3文字のコードは、自宅の郵便番号より先に覚えた。KUL、SIN、HND。もはや呪文である。

室生犀星は、ふるさとは遠きにありて思ふもの、と詠んだ。マレーシアに住むと、日本はまさにその距離にある。不思議なもので、離れてみると、日本のよさも、日本の窮屈さも、前よりよく見える。三つの場所を分けることは、自分の国を、少し離れて眺めるための距離を手に入れることでもあるのだろう。

商売の目で見ると

ここから学べることを三つ挙げておく。一つ目は、住む場所を選ぶ前に、働き方を選ぶこと。分身と仲間で仕事が回る形を、先に作っておく。二つ目は、国境の三点セット、つまりビザと税金と会社の所在を、引っ越す前に確かめること。後からでは、分身でも直せない。三つ目は、子どもの学校の暦を、会社の暦より上に置くこと。家族の一年を決めるのは、結局、学校の休みである。

ガスパールのマイレージ、マイライフ

空港の駐機場を背に、窓の外に伸びる旅客機の翼
クアラルンプール国際空港で、離陸を待つ翼。向こうに並ぶ赤い尾翼の群れは、だいたい私の通勤電車だ。 Photo: Rathnashikamani, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

映画『マイレージ、マイライフ』で、ジョージ・クルーニー演じるライアンは、1年の大半を移動に費やし、空港とホテルを家にしている。彼の持ちネタは、講演でこう問いかけることだ。「あなたのリュックサックには、何が入っていますか」。家も、家具も、人間関係も、重いものは全部下ろせ、と彼は言う。そして映画の終わり、身軽になったはずのライアンは、空港の出発案内の前で、どこへ行けばいいのか分からないまま立ち尽くす。荷物をすべて下ろした人には、帰る場所も残っていなかったのだ。

分身を持った経営者は、その逆ができる。リュックサックに入れるのは、13インチのMacBook Air1台でいい。仕事の重さは、机の上の分身が背負ってくれる。だから、家族という一番重いものを、下ろさずに済む。

芭蕉は旅を栖とした。ライアンは空港を家にした。私は、分身を机に置いて、家族の住む国に帰る。行き先が決まっている旅は、旅ではなく、帰り道である。マイレージは、貯めるためではなく、家族のもとへ帰るためにあるのだ。

参照した資料

  1. TRIPPING!「14年連続マレーシアが第1位!『ロングステイ希望国・地域 2019』発表」. tripping.jp
  2. ロングステイ財団「『ロングステイ希望国・地域2023』トップ10を発表」. longstay.or.jp
  3. LIFULL HOME'S 不動産投資「エイリックの田中」コラム(2025年も1位、財団の事業終了). toushi.homes.co.jp
  4. 外務省「海外在留邦人数調査統計」(令和6年版ほか). mofa.go.jp
  5. ゾノ「マレーシア在留邦人数が激減!」(2020〜2024年の推移、18年連続1位). zono-navi.com
  6. MDEC「DE Rantau Pass FAQ v10」(2026年8月28日). mdec.my
  7. Emerhub「Malaysia offers two additional years to DE Rantau pass holders」(年収要件と期間). emerhub.com
  8. SAYS「Here’s Your Step-By-Step Guide To Applying For A Malaysia My Second Home (MM2H) Visa」(2026年、MM2Hの定期預金と就労). says.com
  9. Expat Focus「Malaysia residency」(PVIPの国外月収の条件). expatfocus.com
  10. Free Malaysia Today「Govt rolls out premium visa programme to draw rich investors」(2022年9月1日、PVIPの参加費). freemalaysiatoday.com
  11. Malaysia4u「PVIP guide」(参加費は返金されないこと). malaysia4u.com
  12. MDEC「Malaysia Tech Entrepreneur Programme(MTEP)」. mdec.my
  13. Imperial International School「Dual-Guardian Visa」(両親二人の保護者ビザ). imperial.edu.my
  14. Expatica「Digital nomad visa in Malaysia」(家族の帯同、マレーシアの雇用主のもとでは働けないこと). expatica.com
  15. The Star「QuickCheck: Has the tax exemption on foreign-sourced income been extended?」(国外源泉所得の非課税、2036年まで). thestar.com.my
  16. PwC「2025/2026 Malaysian Tax Booklet」. pwc.com

画像:JewelSingaporeVortex1:Photo: Matteo Morando, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons / Matsuo Basho by Sugiyama Sanpu:Photo: Sugiyama Sanpū, Public domain, via Wikimedia Commons / Terminal 1 of Kuala Lumpur International Airport, January 2023:Photo: No Swan So Fine, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons / Wing of an airplane:Photo: Rathnashikamani, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

円換算は1リンギット=約38.4円(2026年10月下旬)による。ビザや税の制度は変わることがあり、個々の状況によって扱いが異なります。実際の判断は、日本とマレーシアの専門家にご相談ください。本稿は公開情報をもとにした筆者の見解です。