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マレーシアより愛をこめて 第23回

ユー・ガット・ガスパール

マレーシアにアップルストアが
無かったころ

TRXに本家が来た日、販売店はどうなったか

マレーシアのモールに光る、リンゴのマークの白い店。長いあいだ、この国でアップルの顔だったのは、本家ではなく、正規の販売店だった。シンガポールでは、本家の直営店が来た翌年に、販売店の老舗が倒れた。では、TRXに本家が来たマレーシアでは、何が起きたのか。

夕暮れの超高層ビル群を背に、光る屋根が浮かぶアップルストア
夕暮れのTRXに浮かぶ、マレーシア初のアップルストア。2024年、ようやく本家がやって来た。 Photo: LegendaryLim, CC0, via Wikimedia Commons

リンゴのマークの、正規の販売店

マレーシアのショッピングモールを歩くと、リンゴのマークが光る白い店がいくつもある。MachinesやSwitchといった、アップルの正規の販売店である。売っている物は本家と同じで、値段も同じ。違うのは、店を営んでいるのがアップル自身ではない、という一点だけだ。

マレーシアでは長いあいだ、この正規の販売店が、アップルの顔だった。本家の直営店が来る直前には、「もう、たくさんあるじゃないか」という声に答えて、販売店と直営店の違いを説明する記事が、いくつも出たほどである。

白い店内にテーブルが並び、入口の上にリンゴのマークが光るSwitchの店先
プトラジャヤのモール、アラマンダにあるSwitch。白い店内、整然と並ぶテーブル、リンゴのマーク。看板の隅には小さく、店を営む会社の名前が書いてある。直営店ではないが、れっきとした正規の店である。

シンガポールのiStudio

2011年ごろ、シンガポールに住んでいた私は、アップルの製品をiStudioという販売店で買っていた。当時は、シンガポールにも本家の直営店が無かったのだ。日本には2003年から、アップルがアメリカの外で初めて開いた銀座の店があるのに。販売店で新しいiPhoneを受け取りながら、本家の無い国の、ちょっとした物足りなさを感じていた。のれん分けの店でラーメンをすするようなものである。味は同じでも、いつか本店でも食べてみたくなる。

シンガポールの販売店の老舗は、EpiCentreだった。2002年に始まった、アジアで最初の正規の上級販売店で、最盛期にはシンガポールに9店、マレーシアにも店を構えていた。アップル好きなら、誰もが一度は通った店である。店の名前は、英語で「震源地」。その震源地が、やがて本家の上陸で、自分が揺れることになる。

本家がやって来た

2017年、オーチャード・ロードに、シンガポール初のアップルストアが開いた。

木々の向こうに、ガラス張りの大きな店構えが見える、オーチャード・ロードのアップルストア
オーチャード・ロードのアップルストア。2017年、シンガポールにようやく本家がやって来た。 Photo: S5A-0043, CC BY 4.0, via Wikimedia Commons

その翌年、老舗のEpiCentreは、売上が大きく落ち込み、アップルとの販売店の資格も更新されなかった。そして、4つの店とネットの店を、ライバルのiStudioに、わずか51万シンガポールドルほどで売り渡した。本家が来た翌年に、老舗が倒れたのである。

本家の勢いは止まらない。2020年には、マリーナベイ・サンズの水の上に、球形のアップルストアまで浮かべてみせた。

夜の水面に浮かぶ、光る球形のアップルストア
マリーナベイ・サンズの水に浮かぶアップルストア。販売店の棚に並んでいたリンゴが、ついに海に浮かんだ。 Photo: Diego Delso, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

TRXに、本家が来た

クアラルンプールに本家が来たのは、2024年6月22日。場所は、新しい国際金融街のTRXにある、ショッピングモールのエクスチェンジだった。開業前の合言葉は「Jom!」。マレー語で「さあ、行こう」という意味である。あのアップルにしては、ずいぶん人なつこい挨拶だ。開業の朝には、千人を超える行列ができた。みんな、素直に「行った」のである。

ガラス越しに大きく「JOM」と書かれた、開業前のアップルストア
開業前のアップルストアに掲げられた「JOM」。日本語なら「いざ」くらいの勢いだ。 Photo: Stress 043, CC0, via Wikimedia Commons

TRXは、クアラルンプールが国の顔として作った、新しい金融街である。第21回で、昔「なんだかかっこいい金融の街」という理由だけでラッフルズ・プレイスに憧れた話を書いた。その私の目には、TRXは、クアラルンプールのラッフルズ・プレイスに見える。ミーハーな気持ちは、14年たっても治らない。

青空にそびえる、細長い超高層ビル
TRXの顔、超高層ビルのエクスチェンジ106。見上げると、首が少し痛い。 Photo: Ahmad Ali Karim, CC0, via Wikimedia Commons

TRXは、お金の集まる街でもある。ある日のTRXを、3枚の写真で歩いてみる。

緑のつたが何本も吊り下がる、吹き抜けのショッピングモール
エクスチェンジの吹き抜け。天井から、緑の柱が何十本も垂れ下がっている。モールというより、空中のジャングルである。

モールの屋上階、パーク・レベルにあるラーメン店、豚麺処 官兵衛では、つけ麺と餃子で、日本円にして3,000円を超える。日本の感覚なら目をむく値段だ。それでも店は、マレーシアの富裕層で満席だった。戦国の名軍師と同じ名を持つ店が、TRXの客の胃袋を、見事に攻め落としている。ラーメンが高級料理になる街。それが、今のTRXである。

調味料の壺が並ぶカウンターと、奥の厨房で麺をゆでる料理人
満席のラーメン店のカウンター。酢、餃子のたれ、にんにく。日本のラーメン屋の作法が、そのまま輸出されている。値段だけは、輸出の途中で少し育ったらしい。

銀行も、この街に集まっている。HSBCは、2022年にマレーシアの本社を、TRXのメナラIQに移した。ビルの上の階には、上位の顧客向けのラウンジもある。

革のソファと大理石のテーブルが並び、大きな窓から街を見下ろす銀行のラウンジ
HSBCのPremier Elite向けのラウンジ。金色の照明が、天井から滝のように流れ落ちている。窓の外には、クアラルンプールの街と山並み。銀行というより、空港のラウンジに近い。

ちなみに、第22回で使ったiPhone Duoの写真も、このTRXの店で、発売の日に撮られたものだった。私は買わなかったが。

光が四角い波紋のように重なる、アップルストアの天井
TRXのアップルストアの天井。光の波紋の真ん中に、四角い明かり。ここまで来ると、店というより美術館である。 Photo: *angys*, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons
本家と販売店の年表本家と販売店の年表金色は本家のアップルストア、紺色は販売店の出来事シンガポールマレーシア2002EpiCentre 1号店(アジア初の上級販売店)2007iStudio 1号店(チャンギ空港)2017本家・オーチャード・ロード開業2018EpiCentre、4店をiStudio側に売却2019本家・ジュエル・チャンギ空港開業2020本家・マリーナベイ・サンズ開業2022Machines、東南アジア初の上位店2023Switch、上位店(サンウェイ・ピラミッド)2024Machines、上位店を5店に(4月)2024本家・TRX開業(6月)2025Machines、上位店6店目2026プトラジャヤで本家の求人出所:各社の発表と報道。プトラジャヤの2号店はアップルの発表ではなく、求人からの推測
シンガポールでは本家が来た翌年に老舗が倒れた。マレーシアでは、本家が来る前に販売店が格を上げた。

先回りした販売店

では、マレーシアの販売店はどうなったか。シンガポールの老舗の二の舞いになったのかというと、そうではなかった。

マレーシアの販売店は、本家が来る前に、先回りして店の格を上げていた。Machinesは2022年、クアラルンプールのパビリオンに、東南アジアで初めての「Apple Premium Partner」の店を開いた。アップルの認定を受けた担当者がいる、ひとつ上の格の店である。そして、本家がTRXに来る2024年6月までに、その上位店を5店に増やしていた。Switchも、2023年7月に、サンウェイ・ピラミッドに同じ格の店を開いた。本家の足音が聞こえた時点で、先に靴を磨いておいたのである。

本家がやって来ても、街には今も、MachinesやSwitchの白い店が光っている。本家か販売店かより、近くにあるかどうか。地元の客は、案外そこで店を選んでいる。

商売の目で見ると

この話は、アップルに限らない。海外ブランドの代理店や販売店をしている会社なら、いつか「本家が直接やって来る日」が来る。日本でも、海外ブランドの日本法人ができて、長年の代理店が契約を切られる話は珍しくない。シンガポールとマレーシアの明暗から、ここから学べることを三つ挙げておく。

一つ目。本家と戦うのではなく、本家の側に入ること。マレーシアの販売店は、本家が来る前に、アップルの認定を受けた一段上の店に格上げした。本家から見れば、追い出す相手ではなく、組む相手になったのである。シンガポールの老舗は、最後は本家に資格を更新してもらえなかった。

二つ目。本家が来ない場所を押さえること。シンガポールとマレーシアの明暗を分けた、いちばん大きな違いは、実は国の広さかもしれない。シンガポールは、東京23区より少し広いくらいの国である。そこに本家のアップルストアが、オーチャード・ロード、チャンギ空港のジュエル、マリーナベイ・サンズと3つもあれば、国じゅうどこからでも、電車ですぐに本家に行ける。販売店の逃げ場は、どこにも無かった。

一方、マレーシアの国土は、日本の9割近くもある。本家のアップルストアは、今もTRXの1店だけだ。2026年8月には、アップルがプトラジャヤで店のスタッフを22人募集していると報じられ、2号店はプトラジャヤではないかと噂になっている。私がSwitchを撮った、あのアラマンダのある町である。候補地として名前が挙がっているIOIシティモールには、すでにMachinesの上位店がある。本家の足音は、販売店のすぐそばまで来ている。それでも、2号店ができて、国じゅうでやっと2店だ。日本ほどの広さの国に本家を並べるのは、さすがのアップルにも割に合わない。販売店は、プトラジャヤのアラマンダのような、本家がまず出てこない郊外のモールや地方の町に、すでに店を構えている。家の近くで買えるなら、わざわざクアラルンプールの都心まで行かない客は多い。マレーシアの販売店には、勝ち残る道が十分に残っている。

本家のアップルストア1店が受け持つ広さ本家のアップルストア1店が受け持つ広さ国土の面積を、本家の店の数で割ったもの。四角の面積が、その広さを表すシンガポール約736平方キロ ÷ 3店1店あたり 約245平方キロ東京23区の4割ほどマレーシア約33万平方キロ ÷ 1店1店あたり 約33万平方キロ日本の9割近く。シンガポールの約1,350倍出所:シンガポール統計局(2025年6月の国土)、マレーシアは33万803平方キロ。店の数は2026年11月時点
本家1店が受け持つ広さ。左下の小さな金色の点が、シンガポール。これでは販売店に逃げ場は無いが、マレーシアなら、逃げ場はいくらでもある。

三つ目。値段と品ぞろえで勝負しないこと。同じiPhoneは、どこで買っても同じ値段である。本家と同じ物を同じ値段で売るなら、客は本家に行く。差がつくのは、修理の早さ、会社向けのまとめ買い、顔なじみの店員といった、本家がやりにくい手間の部分だ。シンガポールの老舗は、そこで差をつけられないまま、本家と同じ客を取り合って負けた。

まとめれば、本家の上陸は、代理店にとって死刑宣告ではなく、予告編である。来ると分かっているなら、準備はできる。

ユー・ガット・ガスパール

映画『ユー・ガット・メール』では、大型書店チェーンが近所に開店し、メグ・ライアン演じる店主の小さな絵本の店が、やがて店を閉める。本家と販売店の話も、だいたいこの筋書きで終わるものだと思っていた。

ところが、マレーシアの販売店は、店を閉めなかった。本家のすぐそばで、今日も白い店を光らせている。小さな店が、大きな店に負けない方法はある。その答えは、映画よりも、クアラルンプールのショッピングモールのほうに書いてあった。

ちなみに、iPhoneを買わないと決めた私も、Macは別腹である。第17回で書いたとおり、Macには、なかなかの金額を、懲りずに注ぎ込んでいる。今もTRXの店に注文を入れていて、受け取りの日を指折り数えているところだ。TRXの店にはしょっちゅう通い、シンガポールに行けば、オーチャードやマリーナベイの店にも寄る。本家にとって私は、iPhoneを買わない、少し変わった常連客なのだろう。

本家の店でも、販売店でも、リンゴのマークを見ると、つい足が向く。私の財布は、どちらの前でも、だいたい同じように緩むのである。

参照した資料

  1. New Straits Times「First Apple Store in Malaysia to open on June 22」(2024年5月29日). nst.com.my
  2. Apple Newsroom「Apple’s First Retail Store in Japan Opens in Tokyo This Sunday」(2003年11月27日、アメリカ国外で初の店). apple.com
  3. Lester Chan「Apple Store」(シンガポールの3店:2017年オーチャード・ロード、2019年ジュエル・チャンギ空港、2020年マリーナベイ・サンズ). lesterchan.net
  4. SoyaCincau「Apple The Exchange TRX is now open」(開業日に千人を超える行列). soyacincau.com
  5. SoyaCincau「Malaysia’s second Apple Store is opening in Putrajaya?」(2026年8月8日). soyacincau.com
  6. シンガポール統計局「Land Area」(2025年6月時点で約736平方キロ). singstat.gov.sg
  7. JAXA地球観測研究センター(シンガポールと東京23区の面積の比較). eorc.jaxa.jp
  8. HSBC Malaysia「HSBC Malaysia opens new head office in TRX Kuala Lumpur」(2022年3月、メナラIQ). about.hsbc.com.my
  9. Machines「Machines launches first Apple Premium Partner Store in South East Asia at Pavilion Kuala Lumpur」(2022年10月). machines.com.my
  10. Business Today「Machines opens fifth Apple Premium Store in KLCC」(2024年4月、パビリオン、1 Utama、IOIシティモール、ミッドバレー、KLCC). businesstoday.com.my
  11. TechNave「Machines」(2025年3月、6店目のサンウェイ・ベロシティ). technave.com
  12. Tech TRP「Apple Store vs Apple Premium Resellers」(MachinesやSwitchは正規販売店). techtrp.com
  13. theSun「“Jom” Apple invites Malaysians to its store at The Exchange on June 22」. thesun.my
  14. SoyaCincau「Switch’s first Apple Premium Partner store at Sunway Pyramid」(2023年7月、東南アジア初のApple Premium Partnerはマレーシア). soyacincau.com
  15. SoyaCincau「Apple Store vs Machines, Switch and Senheng」(MachinesのPavilion KLの店). soyacincau.com
  16. Alvinology「How Apple Premium Reseller Store, EpiCentre stays ahead of the game」(2015年、アジア初の上級販売店). alvinology.com
  17. Vulcan Post「Apple Reseller EpiCentre sold stores to rival iStudio」(2018年、オーチャードの店との競争). vulcanpost.com
  18. Marketing-Interactive「EpiCentre no longer Apple's authorised reseller in Singapore」(2018年4月で資格が更新されず). marketing-interactive.com
  19. Elush Retail「iStudio」(2007年、チャンギ空港に1号店). elushretail.com

画像:Apple The Exchange TRX, Exterior Night View:Photo: LegendaryLim, CC0, via Wikimedia Commons / (SGP-Singapore) Apple Orchard Road 2024-11-02:Photo: S5A-0043, CC BY 4.0, via Wikimedia Commons / Apple Marina Bay Sands, Marina Bay, Singapur, 2023-08-16, DD 105-107 HDR:Photo: Diego Delso, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons / Apple Store TRX, JOM:Photo: Stress 043, CC0, via Wikimedia Commons / The Exchange 106 20241022 - full:Photo: Ahmad Ali Karim, CC0, via Wikimedia Commons / Apple Store, Kuala Lumpur roof (240721):Photo: *angys*, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

吹き抜け、ラーメン店、ラウンジ、Switchの店先の写真4点は筆者撮影(2026年11月)。本稿は公開情報をもとにした筆者の見解です。