マレーシアより愛をこめて 第9回
勘違いで、王になったガスパール
ボルネオに、
英国人の王が居た
白人王ブルック家の100年と、クチンの川
外国人がこの国に住むだけでも、書類の山を越えなければならない。ところが、ボルネオのクチンには、王になった英国人が居た。しかも、相手の勘違いだったという説まである。第8回で予告したまま、このコラムの伝統どおり少し寝かせておいた、白人の王の話である。
王国の役所を通って、チェックイン
いまクチンでは、シェラトンに泊まる。上の階の会議室からは、サラワク川がよく見える。
その前の定宿は、川沿いのウォーターフロントホテルだった。このホテル、入口が少し変わっていて、1874年に建てられた旧裁判所の敷地を抜けて中に入る。旧裁判所は、白人王の時代の最初の役所だ。つまり私は、王国の役所の庭を通ってチェックインしていたことになる。
すぐそばの川べりには、白い小さな要塞が建っている。1879年築のスクエアタワーだ。窓と扉の上には、黄色の地に赤と黒の十字の紋章。隣のペンカラン・バトゥという船着き場で、歴代の王は川向こうの宮殿から舟で渡ってきて、役所へ通ったそうだ。王の通勤路である。
第8回では、東マレーシアは国内線を降りても入国審査がある、と書いた。私は国内で二度入国した。ところが、この川を渡ったある英国人は、入国どころか建国してしまった。
問題児、帆船を買う
ジェームズ・ブルックは1803年、インドのベナレスで裁判官の息子として生まれた。英国の学校では問題児で、15歳で寄宿舎を脱走して放校になる。東インド会社の軍では中尉まで上がったが、勤務ぶりは不まじめだったと伝わる。ビルマの戦争で大けがをして、帰国した。ここまで読む限り、王になる要素は一つも無い。
転機は1835年、父の遺産だった。彼はその遺産で、帆船ロイヤリスト号を買う。家でも馬車でもなく、帆船である。1838年、シンガポールへ向けて出航した。
勘違いで、王になる
1839年、クチンに着く。当時のサラワクはブルネイの領地で、反乱が続いていた。鎮圧を頼まれて一度は断り、翌年に引き受ける。対立する部族同士を競わせて、反乱は収まった。
1841年にラージャ(王)の称号を得て、翌1842年にはブルネイのスルタンのもとへ直接出向き、正式に任じられた。このときスルタンは、彼を大英帝国の代理人だと思い込んでいた、という説がある。勘違いで、王になる。人生には、訂正しないほうがいい勘違いもあるらしい。
1847年に英国へ戻ると、熱烈な歓迎を受け、ヴィクトリア女王にも会った。ところがその後、海戦で多くの死者を出したことから、先住民を虐殺したのではないかと本国で非難される。シンガポールの審問会に呼ばれ、1854年に無罪となったが、評判は傷ついた。英国人の王を、英国人自身も手放しでは褒めていなかったのである。
外国資本、お断り
白人王たちは、先住民を外国資本の搾取から守るとして、外国からの投資や開発を原則として禁止した。外国人が建てた国で、外国資本はお断り。国境をまたいで事業をしてきた身としては、笑っていいのか少し迷う。
ところが、例外があった。日本の日沙商会だ。1911年に土地の租借を許され、大きなゴム園を開いた。依岡省三と、事業を継いだ依岡省輔が、王の信頼を得ていたからだという。外国資本を拒んだ王が、日本人には土地を貸したのである。100年以上前のボルネオで、信用ひとつで扉を開けた日本人が居た。この話は、少し誇らしい。
王が招いた麺
2代目は甥のチャールズで、1868年に継いだ。妻マーガレットのために川向こうに宮殿アスタナを建て、丘の上の要塞には妻の名前を付けた。マルゲリータ砦だ。資料では1879年築とあるが、入口には「1880」と刻まれている。完成した年なのか、工事が押したのかは分からない。いずれにしても、妻への贈り物が要塞である。
チャールズは、お金はお断りでも、人は招いた。1900年、福州出身の黄乃裳(ウォン・ナイシオン)と協定を結び、福州の人たちを呼び寄せて、ラジャン川の流域に農業の入植地をつくらせた。王は渡航費を貸し付け、入植者は3回に分けて、合わせて1,118人が到着した。行き先はシブ。王の狙いは、そこを王国の米どころにすることだった。
福州の人たちは米を作った。そして、麺も持ってきた。シブの名物、カンプア麺である。王が期待したのは米だったが、いまシブの名物として知られているのは、麺のほうだ。
この日はサラワクラクサも食べた。エビ・スペシャルで、大きなエビが4尾入って15リンギット(約580円)。第8回のビントゥルでは、エビ3尾で16リンギットだった。クチンのほうが、1尾多くて1リンギット安い。
添えられたライムは、サンバルにドボンと浸かっていた。当然、見事に辛い。
同じマレーシアで、街の顔が違う
同じマレーシアでも、街の顔はずいぶん違う。クアラルンプールはマレー系の街で、そこに中華系が少しと、インド系が少し。
サラワクの街中は、中華の町だと思う。クチンやシブを歩くと、香港やシンガポールの空気に近い。マレー系も少し居て、インドネシア系もたぶん混じっている。体感としてはそんなところだ。州全体で数えれば最大の民族はイバン族なのだが、街中の顔はまた別である。
豚肉もお酒も自由で、クリスチャンが多い。西マレーシアとは、ずいぶん勝手が違う。
何故こうなったのか。ここで白人王の時代に戻る。王国は金鉱を掘らせるために、中国人の鉱夫を呼んだ。1857年には、その華人鉱夫たちの反乱も起きている。そして1900年に福州の人たちを招いたのが、さっきの麺の話だ。
もうひとつ、よく言われる話がある。王たちは、イスラム教徒のマレー人への布教を宣教師に制限したという。その代わり、宣教の手はイバンやダヤクの人たちに向かった。クリスチャンが多い理由の一部も、王の政策にあるのかもしれない。いまの街の顔は、王が呼んだ人と、王が引いた線の合作なのである。
好きな街と、住める街
正直に書くと、食べ物も気候も文化も、西マレーシアより東マレーシアのほうが好きかもしれない。
それでも、いま住んでいるのは西だ。理由は、わりと現実的である。日本からの直行便がある。シンガポールが近い。世界中を行き交う人が、トランジットで寄ってくれる。空港にも近い。そして、インターナショナルスクールの数が多い。好きな街と住める街は、別なのだ。だから私は、クチンに住まずに、クチンに泊まっている。
ただし、この等式は、そのうち崩れるかもしれない。東マレーシアにもインターナショナルスクールが増えてきた。さらにクチンには新しい空港の構想があり、州営の航空会社エアボルネオには、日本への直行便を飛ばす野望があるらしい。出入国管理に続いて、航空会社まで自前である。
実現すれば、好きな街と住める街が一致する。そうなれば、私にも大それた野望がある。一日三食、サラワクの麺である。
博物館で、王国を組み立てる
クチンのボルネオ文化博物館は、白くて大きな新しい建物だ。船を組み立てる体験コーナーがあって、小さな手が船体に部品を一つずつはめていく。横には、私のライカが置いてある。
王国は、100年かけて組み上がった。博物館の船は何度でも組み直せるが、王国は、そうはいかない。
100年目の憲法と、王国の終わり
3代目は、チャールズの息子のヴァイナー。1941年、建国100周年を記念して憲法を定め、王国は立憲君主国になった。
その年の暮れ、太平洋戦争が始まる。日本軍がサラワクを占領し、ヴァイナー王はオーストラリアへ逃れた。王朝は、ちょうど100年で実際の支配を失った。あの日沙商会も、日本の敗戦で資産をすべて没収され、日本人は強制的に帰国させられた。ここは日本人として、静かに書くにとどめたい。
戦後、ヴァイナーは支配権を売って王位を退き、サラワクは英国の直轄植民地になった。対価は大金と、好物だった大量のジャムだった、という話が残っている。国の値段の内訳に、ジャムが入っていたことになる。
1963年、サラワクはマレーシアの一員になる。国内線を降りても入国審査がある、あの不思議な仕組みは、このときの約束から来ている。
商売の目で見ると
職業柄、学べることを三つだけ。
一つ目は、信用は資本より強い、ということだ。外国資本を締め出した王国で、日沙商会は土地を借りられた。決め手は出資の額ではなく、王との信頼だった。ASEAN で事業をする日本企業にとって、いまでも通じる話だと思う。
二つ目は、事業承継だ。初代に嫡子は無く、甥が継ぎ、その息子が継いで、三代でおよそ100年。国という家業も、継ぐ人を決められるかどうかで寿命が決まる。
三つ目は、人を呼ぶことだ。王国は金鉱に中国人の鉱夫を呼び、米作りに福州の人たちを招いた。人の少ない土地を育てる近道は、人を呼ぶことだった。いまのサラワクが新空港と自前の航空会社に賭けているのも、根っこは同じなのかもしれない。
三人の王は、並んで眠る
三人の白人王は、英国ダートムーアのシープストー村の教会に、並んで葬られている。
名前は、ボルネオにも残った。大きなウツボカズラの一種は「ネペンテス・ラジャ」、羽の大きなアゲハチョウの一種は「ラジャ・ブルック」と名付けられた。王国は無くなったが、チョウはいまも森を飛んでいる。写真を撮る人間としては、王より、こちらに会いたい。
川向こうの州議会の前に掲げられたサラワクの州旗は、黄と赤と黒。スクエアタワーの紋章と同じ色だ。
息ある限り
キプリングに『王になろうとした男』という小説がある。ショーン・コネリー主演で、映画にもなった。英国の元軍人ふたりが、山の民の王を目指す話だ。この物語は、ジェームズ・ブルックが着想源の一つとされている。ただし、こちらの英国人は、王を目指したわけでもないのに王になった。
サラワク王国の標語は、ラテン語でこう書く。
- Dum Spiro Spero
- 息ある限り、希望を捨てず(サラワク王国の標語)
王国は100年で終わったが、この標語は、まだ使える。三食サラワクの麺という私の野望も、息ある限り、捨てずにおこう。
王は毎朝、舟でこの川を渡って、国を治めた。私は同じ街で、今日も麺をすすっている。