マレーシアより愛をこめて 第21回
スタンド・バイ・ガスパール
古い仲間に、
「それもええやん」と言われた
事業からは撤退しても、国からは撤退しない
古い海外起業家仲間が、Webマガジンの日記に、私のことを書いてくれた。題は「商いは日本、暮らしはマレーシア。それもええやん。」。私が何千字もかけて書いたことを、大阪弁の一言で言い当てられてしまった。
先輩の日記に、登場した
11月3日、Webマガジン「街角のクリエイティブ」の日記の連載に、私が登場した。題は「商いは日本、暮らしはマレーシア。それもええやん。」。書いてくれたのは、加藤順彦さん。古い海外起業家仲間である。仲間といっても、東南アジアで商売をしてきた日本人起業家としては戦友で、しかも何歩も先を歩いている先輩だ。戦友と先輩を兼ねる人は、だいたい手ごわい。
付き合いは長い。実は、会う前から名前は知っていた。2000年ごろ、私はインターキュー(現在のGMOインターネットグループ)の熊谷正寿さんらと、渋谷でネット広告のオークションの会社を立ち上げた。そのころから、加藤さんの噂はよく耳に入ってきた。ちなみにその会社は、のちに大手広告代理店を巻き込む業界再編の波にのまれ、今も博報堂DYグループの、日本を代表するネット広告代理店の一部として生きている。会社にも、なかなか数奇な人生がある。
直接会ったのは、確か2003年ごろ。新宿の私のオフィスに、広告会社・日広の社長だった加藤さんが、「渋谷ビットバレーカレンダー」を売りに来たのだ。ビットバレーとは、渋谷を「渋い(ビター)谷(バレー)」と英語で洒落た、IT企業の街の愛称である。カレンダーには東京のIT企業の地図が載っていて、その新宿のあたりにMARSFLAGのロゴを載せませんか、という。もちろん、有料で。壁に大きなカレンダーを掛けるのが当たり前だった時代だ。地図の上の土地を、社長自ら売りに来る。不動産屋より先に、私に新宿の一等地を売ったのは加藤さんである。とても楽しく買わせていただいた。
そのカレンダーの地図をなぞるように言えば、当時の東京のIT企業は、私の記憶では、ざっとこう並んでいた。Yahoo!は六本木、exciteは恵比寿、MARSFLAGは新宿、サイバーエージェントやON THE EDGEは渋谷。検索エンジンの会社と、そこと組むネット広告の代理店が、ITの真ん中で肩をぶつけ合っていた時代である。
加藤さんがカレンダーを売りに来たのは、新宿御苑前の御苑通り沿い、1階にセブン-イレブンが入ったビルの上のオフィスだった。確か、MARSFLAGにとって4か所目のオフィスである。おにぎりには一生困らない立地だった。その後も引っ越しを重ね、6か所目となる同社の現在の本社オフィスは、東京駅前の東京スクエアガーデンにある。コンビニの上から、東京駅前の高層ビルへ。窓の景色は、20年あまりでだいぶ出世した。
2008年、加藤さんの会社(当時はNIKKO)はGMOインターネットのグループに入り、加藤さんは社長を退いてシンガポールへ渡った。そして2012年、私たちはシンガポールで再会する。先輩は、だいたい先回りしている。
80ロビンソンの準備室
加藤さんが、シンガポールで初めての日系のシェアオフィス、Crosscoop Singaporeの立ち上げに関わっていることは知っていた。シンガポールに拠点を作ると決めたとき、まず相談に行き、その日のうちに入居を決めた。即断即決というより、ほかに当てが無かった。
当時、会社のシンガポール法人はまだ無かった。肩書きは、準備室。私と、シンガポール法人の社長候補のもう一人とで常駐し、シンガポール人の社員を採用し、ASEANの本部を立ち上げる。準備室が本部を作るのだから、話としては、たまごが鶏を産むようなものである。
Crosscoopがあったのは、80ロビンソン・ロード。いつかラッフルズ・プレイスにオフィスを構えたい、という夢があった。夢といっても、高尚なものではない。ラッフルズ・プレイスは、なんだかかっこいい金融の街だから。それくらいの、ミーハーな気持ちだった。80ロビンソンは、そのラッフルズ・プレイスと、自宅のあったタンジョン・パガーのちょうどあいだにあり、どちらにも歩いて行けた。毎朝、憧れの街の手前まで歩いては、手前で曲がって出勤していたことになる。
1年後、念願かなってシンガポール人と中国人の社員を採用し、ラッフルズ・プレイスにASEANの本部を開いた。ミーハーな夢も、1年あればかなう。開所式には、Crosscoopの方々や、同じころに入居していた仲間たちが、たくさん駆けつけてくださった。準備室から本部へ。あの1年のことは、今でもよく覚えている。
調べてみると、Crosscoop Singaporeは今も続いていた。2011年にシンガポール初の日系シェアオフィスとして開業し、これまでに600社を超える日系企業が使ってきたという。2024年9月には、日本のZero-Ten Parkが経営を引き継ぎ、名前を変えて開き直した。私の準備室も、その600社あまりのうちの1社だったわけだ。名前は変わっても、シンガポールからは撤退していない。このあと書く話の、ちょうど前振りのようである。
加藤さんの日記には、2012年のCrosscoopの懇親パーティの写真まで載っていた。写真の中に自分を探してみたが、見つからなかった。たぶん、あの会場のどこかにはいた。ウォーリーを探せの、ウォーリー側の気分である。
ヒルトンでの再会
再会したのは、10月23日。マレーシアへの移住を手伝う会社、IKILINKSが、クアラルンプールに新しい事務所を開いた記念の「感謝の会」が、ヒルトン・クアラルンプールの6階のボールルームで開かれた。IKILINKSは、私も日ごろお世話になっている会社だ。ここ1〜2年でクアラルンプールに移り住んだ家族たちを中心に、60人ほどが集まった。
会場で、加藤さんに声をかけられて驚いた。IKILINKSは、加藤さんが資本と経営に参画している会社だったのだ。お世話になっている会社の向こうに、20年来の戦友がいた。世間は狭いというが、東南アジアの日本人起業家の世間は、たぶん四畳半くらいしかない。
加藤さんの日記には、私のこれまでの引っ越しの経歴がひととおり書かれたあと、こう結んであった。「なるほど。わかる。そういう人なのだ」。
何がわかったのかは、書いていない。聞かないでおく。もっとも、驚いたのは私も最初の一瞬だけだった。加藤さんの言葉を借りれば、こちらも「ああ、そういう人だよね、わかる」である。お互い、そういう人なのだ。
それもええやん
日記の締めくくりは、こうだ。商いをする場所と、家族の暮らしの拠点は、べつに同じでなくてもいい。
これは、私が第18回で、何千字もかけて書いたことと同じである。孟母三遷を持ち出し、芭蕉を引き、グラフを4枚も作って、ようやく言えたことを、加藤さんは大阪弁の一言で片付けた。それもええやん。
悔しいが、大阪弁で言われると、説得力が三割増しになる。私の第18回は、この一言の長い注釈だったのかもしれない。注釈のほうが、本文よりだいぶ長い。
事業からは撤退しても、国からは撤退しない
加藤さんの日記には、もう一つ、鋭い観察があった。昔の仲間たちは、とうの昔にシンガポールやマレーシアから事業を引き揚げているのに、なぜか両国に片足をかけ続けている、というのだ。
言われてみれば、そのとおりである。海外起業家という生き物は、事業からは撤退しても、その国からは撤退しない。一度住んだ国は、取引先というより、親戚に近くなる。用事が無くても、正月とお盆くらいは顔を出したくなる。
かく言う加藤さんも、シンガポールに住んで永住権を持ちながら、大阪のラジオ局の会長を務め、マレーシアの会社の経営にも関わっている。片足どころか、両手両足をあちこちにかけている。ツイスターゲームなら、とっくに優勝している。そういう人であることにかけては、先輩のほうが一枚も二枚も上手である。
スタンド・バイ・ガスパール
映画『スタンド・バイ・ミー』は、12歳の少年4人の旅の物語だ。最後に、大人になった主人公が、こう書き残す。あの12歳のときのような友達は、その後二度とできなかった。
海外で起業したての頃の戦友も、たぶん同じだ。言葉も勝手も分からない国で、一緒に右往左往した戦友は、その後二度とできない。だから、たまに再会すると、つい長話になる。2003年のカレンダーの話から、これからの話まで。少年たちは線路の上を歩いたが、私たちは、だいたい空港の動く歩道の上を歩いている。
加藤さん、書いてくださって、ありがとうございました。次は、先輩の「それもええやん」の続きを、コーヒーでも飲みながら聞かせてください。私はお酒を飲まないので、話は長くなっても、記憶はなくなりません。