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マレーシアより愛をこめて 第19回

ガスパールの空に

晴れ男が来た日、ヘイズが消えた

うれしい。でも、少しだけ納得がいかない

2か月あまり、白い空の下で暮らした。そこへ、日本から12歳年上の友人がやってきた。彼が着いた途端、ヘイズが消えた。彼は青空の下で仕事をし、写真を撮り、日本へ帰っていった。帰ったあとも、晴れている。うれしい。うれしいのだが、どこか、納得がいかない。

青空にわき立つ白い雲と、木々の向こうにのぞく帆船のマスト
ヘイズが消えた空。雲が、雲の形をしている。それだけで、少し泣けてくる。

2か月の灰色

今年のヘイズは、長かった。8月の初めにボルネオ島のサラワクで始まり、8月の終わりにはマレー半島にも広がった。インドネシアの森林火災や野焼きの煙が、南西モンスーンの風に乗って、何度もやってきた。8月30日には、独立記念日の首相演説が、煙のせいで屋外の広場から屋内の会場に移された。国の誕生日まで、ヘイズに屋内へ追いやられたのである。

10月に入っても、空は白いままだった。10月23日の朝には、クランの近くの観測点で、大気汚染指数が162を記録した。「健康に悪い」の区分である。マスクは顔の一部になり、洗濯物は部屋の中に干し、空気清浄機は、家族の誰よりもよく働いた。第4回でヘイズのことを書いたときは、まさか秋まで続くとは思っていなかった。

晴れ男、上陸

そこへ、日本から友人がやってきた。12歳年上だが、世界の旅、ガジェット、ライカ、写真、そして経営と、不思議なほど共通点の多い友人だ。仕事と撮影を兼ねた、短い滞在だった。10月26日、彼は私の町に着いた。

彼が着いた途端、ヘイズが消えた。比喩ではない。正確に言えば、空は彼の到着を察したように、前の日から白さを薄め始めていた。そして翌27日の朝、クアラルンプール周辺の観測点は、すべて「健康に悪い」の区分を抜け、いくつかは「良い」にまで戻った。前の週まで白かった空が、絵の具を塗り直したように青い。

クアラルンプールの大気汚染指数の推移クアラルンプールの空気(大気汚染指数)バトゥ・ムダ観測点。報道された時点の数値。101以上は「健康に悪い」健康に悪い(101〜200)普通(51〜100)0501001502009月1日10月1日10月31日10月26日 晴れ男、着く17184出所:環境局の大気汚染指数(APIMS)を引用した各紙の報道(2026年8月28日〜10月27日)報道された日時の値で、日平均ではない
クアラルンプールの空気。2か月近く「健康に悪い」の帯の中をうろうろしていた線が、晴れ男の到着とともに、すとんと落ちた。
大きなガラス窓の向こうに青空と白い雲が広がる、日差しの入るカフェの店内
いつものカフェ。窓の外に、久しぶりに雲の形がある。床に落ちる影まで、くっきりしている。

彼は、その青空の下で仕事をし、写真を撮り、うまいものを食べ、そして日本へ帰っていった。彼のライカに写ったマレーシアは、きっと、一年中こんな顔をしているのだろう。

木漏れ日が落ちるコンクリートの壁と、ガラス張りのカフェの入り口
木漏れ日まで、ちゃんと影を落としている。ヘイズの季節には、影さえぼんやりしていた。

写真家として言わせてもらえば、赤道直下の写真の真骨頂は、コントラストにある。北緯3度のクアラルンプールでは、太陽はほとんど真上から照りつける。強い光が落ちたところは白く飛びそうに輝き、そのすぐ隣に、墨を流したような濃い影ができる。この光と影の落差こそが、赤道の写真の味わいだ。

ヘイズは、その味わいを根こそぎ奪っていく。煙が光を散らし、影の輪郭をぼかし、世界をのっぺりとした灰色の一枚に変えてしまう。2か月のあいだ、私の写真からは、影が消えていた。写真家にとって、影の無い空は、塩の無い料理のようなものである。

晴れ男は、私の写真に、影を返してくれた。それだけは、素直に感謝しておく。

そして、彼が帰ったあとも、晴れている。

うれしい。でも、納得がいかない

うれしい。もちろん、うれしい。2か月ぶりの青空である。それなのに、どこか、腑に落ちない。

しばらく考えて、理由が分かった。私は、彼に少しだけ、煙を吸ってほしかったのだ。あの白い空を、一日でいいから見てほしかった。人は、一緒に苦労した相手を、仲間と呼ぶ。苦労を分け合えなかった相手は、どんなに気の合う友人でも、どうも土産話だけを持って帰った観光客に見えてしまう。12歳も年上の友人に向かって、我ながら心の狭い話である。

映画『ショーシャンクの空に』の主人公アンディは、無実の罪で何十年も刑務所に閉じ込められ、最後は500ヤードもの汚水管を這って、自由の雨を浴びた。それに比べて、わが友人は、空港の到着口を出ただけで、青空を浴びた。汚水管を這った人間からすれば、文句の一つも言いたくなるだろう。私は、2か月あまり、ヘイズの刑務所に入っていた。

種明かし

もっとも、晴れ男の正体は、ちゃんと分かっている。マレーシア気象局によれば、10月27日から北東モンスーンが始まった。南シナ海のほうから風が吹き、インドネシアの煙を、マレーシアから遠ざけてくれる季節だ。この晴れ間は、来年の7月ごろまで続く見込みだという。

彼が私の町に着いたのは、10月26日。北東モンスーンが始まったのは、その翌日である。つまり彼は、モンスーンが入れ替わる前の晩に、狙いすましたように到着したのだ。晴れ男の正体は、モンスーンである。科学的には、そういうことになる。ただ、一日早く着いたところが、どうにも晴れ男らしい。

それでも、私は彼を晴れ男と呼ぶことにする。12歳年上の友人に失礼な気もするが、そのほうが、話が面白いからだ。それに、来年の夏、ヘイズが戻ってきたときに、お招きする口実ができる。今度は、到着の一週間前から、空気清浄機を止めて待っていようと思う。

朝日が昇る青空に、羽のような白い雲と、遠くを飛ぶ飛行機
朝の空。左上の小さな飛行機は、たぶん晴れ男を乗せた便ではない。もう帰ったので。

ガスパールの空に

実は、『ショーシャンクの空に』には、個人的な思い出がある。

会社の経営がどうにもうまくいかず、出口の見えない時期があった。そのころ、出資してくれていたベンチャーキャピタルの担当者で、社外取締役も務めていた男が、ある日ぽつりと言った。「Get busy living, or get busy dying.」必死に生きるか、必死に死ぬか。あの映画の台詞だ、とだけ言って、彼はそれ以上何も説明しなかった。

とにかく観ろ、と言われた気がして、その週末に観た。正直に言えば、観たからといって、すぐに希望が湧いたわけではない。アンディのように、小さなロックハンマーで壁を何年も掘り進める根気も、私には無かった。それでも結果的に、私は、とらわれの身から少しずつ自由になり、事業は、なぜか軌道に乗った。理由は、今でもよく分からない。ただ、あの台詞だけは、ずっと頭の隅に残っていた。

その彼は今、日本を代表する要職に就いている。あの一言がどれほど効いたのか、本人に確かめたことはない。聞けば、たぶん「そんなこと言ったっけ」と返されるだろう。良い社外取締役とは、そういうものなのかもしれない。

映画の中で、アンディは友人のレッドに、こう書き残す。希望はいいものだ。たぶん、いちばんいいものだ。そして、いいものは決して死なない。

ヘイズの空の下で暮らす者にとって、希望とは、北東モンスーンのことである。そして、たまに日本からやってくる、何も知らない晴れ男のことでもある。

次においでいただくときは、ぜひヘイズの真っ最中にお願いしたい。半日で結構です。白い空の下で、ご一緒に咳をいたしましょう。それが済んだら、二人で青空を待てばいい。年の差12歳の友情とは、たぶん、そういうものだ。

参照した資料

  1. Malaysia4u「Air Pollution and Haze in Malaysia」(2026年のヘイズは8月初めにサラワクで始まった). malaysia4u.com
  2. Free Malaysia Today「Unhealthy air quality as haze returns to Klang Valley」(2026年9月29日). freemalaysiatoday.com
  3. New Straits Times「Haze worsens with 37 areas recording unhealthy API levels」(2026年10月9日). nst.com.my
  4. Business Today「Johor Remains Worst Hit By Haze」(2026年10月10日). businesstoday.com.my
  5. Free Malaysia Today「Johor still worst hit by haze, Klang Valley API readings rise」(2026年10月14日). freemalaysiatoday.com
  6. Malay Mail「Malaysia’s haze map turns red」(2026年10月15日). malaymail.com
  7. Media Selangor「Unhealthy air quality persists as haze blankets Selangor」(2026年10月21日). mediaselangor.com
  8. Free Malaysia Today「Klang Valley haze clears, but Serian nears very unhealthy API」(2026年10月25日). freemalaysiatoday.com
  9. Malay Mail「Haze continues choking Malaysia as 19 areas see ‘Unhealthy’ air quality」(2026年8月28日、独立記念日の首相演説の会場変更). malaymail.com
  10. The Vibes「Haze: Unhealthy air grips Klang Valley」(2026年10月23日、大気汚染指数162). thevibes.com
  11. Malay Mail「Fresher air in Malaysia again」(2026年10月27日). malaymail.com
  12. SAYS「The Sky Is Blue Again In Most Parts Of Malaysia. Here’s Why & How Long It Might Last」(北東モンスーンの開始と見通し). says.com
  13. The Star「Cross-border haze expected to clear from Oct 9 as inter-monsoon period begins」(南西モンスーンは5月14日から). thestar.com.my

写真はすべて筆者撮影。本稿は公開情報をもとにした筆者の見解です。