マレーシアより愛をこめて 第4回
ガスパール 太陽とにらめっこして勝つ
快晴なのに、
太陽を直視できる国
マレーシアの「ヘイズ」と、隣国との空気をめぐる言い分
平日の昼下がり、雲ひとつない快晴。なのに、太陽をじっと見つめていられる。まぶしくない。オレンジ色の丸い円盤が、木の枝にぶら下がった柿のように見えるだけだ。これが、マレーシアの秋の風物詩「ヘイズ」である。日本の秋が紅葉なら、こちらの秋は灰色だ。
ヘイズって、何?
日本の方に「ヘイズ(haze)」と言っても、たぶんピンと来ない。黄砂やPM2.5を思い浮かべるかもしれないが、中身はもっと焚き火寄りだ。正体は、海の向こうのインドネシア、主にスマトラ島やカリマンタン(ボルネオ島)で起きる、森林や農地の火災の煙である。
火の多くは、乾季に起きる。アブラヤシやパルプ用の植林地を広げるために土地を焼く、いわゆる野焼きが火種になることが多いとされる。厄介なのは泥炭地だ。泥炭は、長い年月をかけて枯れた植物が積み重なった、いわば天然の炭の層。いったん火がつくと地面の下でくすぶり続け、表面を消しても消えない。
そして6月から9月ごろにかけては、南西の季節風が吹く。スマトラで上がった煙は、この風に乗ってマラッカ海峡を越え、マレー半島とシンガポールにまっすぐ届く。煙に国境は無い。パスポートも要らない。
今年は、学校が休みに
今年は、特にひどい年だ。10月9日の午後には、マレーシア国内の9か所の観測地点で、大気汚染指数(API)が180を超えた。APIは、0〜50が「良好」、101〜200が「不健康」、300を超えると「危険」という目安である。11日の朝には、クアラルンプールのチェラスでも157を記録している。
教育省は、APIが180を超えた地域の学校を10月9日から休校にし、150超が3日続いた地域も12日から休校にすると発表した。行政首都プトラジャヤの学校も閉まった。休校の知らせに大喜びしたのは、たぶん子どもたちだけである。
ただ、せっかく学校が休みになっても、遊びに行く先が無い。近所のウォーターパークも、すっかり霞んでいる。第3回の冒頭で、晴れた日の写真を載せた、あの海賊船だ。


煙をめぐる、言い分の食い違い
さて、ここからが本題だ。ヘイズの季節になると、毎年おなじみの「言い分の食い違い」が始まる。
マレーシアとシンガポールの言い分は、シンプルだ。「この煙は、インドネシアから来ている」。今年もアンワル首相がプラボウォ大統領に直接電話をかけ、消火の手伝いを申し出たうえで、ASEANの環境相会議を呼びかけている。
インドネシア側の言い分は、年によって味わいが違う。
2015年、当時のユスフ・カラ副大統領はこう言った。「11か月間、隣国はインドネシアからのきれいな空気を楽しんできたのに、感謝されたことは一度もない。1か月煙に苦しんだだけで怒る」。これを受けてシンガポールでは、インドネシアに「きれいな空気をありがとう」と伝える、感謝ボタン付きのウェブサイトが作られた。皮肉の効いた、なかなか洒落た反撃である。しかも2023年には、そのサイトをインドネシアの人が復活させている。笑いにも国境は無い。煙と同じで。
2023年には、インドネシアの環境林業相が「マレーシアに届く越境ヘイズは確認されていない」と、煙の存在そのものを否定した。
そして今年の10月10日。インドネシア政府の広報機関のトップが言った。「煙がないときは、我々が酸素を送っている。シンガポールとマレーシアの酸素は、我々の森から来ているのだ」。火災そのものは自然現象だ、とも。11年たって、「きれいな空気」が「酸素」に格上げされたわけだ。
空気の貿易収支で言えば、インドネシアは11か月間は酸素の輸出国で、1か月だけ煙の輸出国、ということになる。請求書を送るべきか、感謝状を送るべきか。悩ましいところである。
インドネシアにも、言い分はある
ただ、笑ってばかりもいられない。インドネシアにも、まっとうな言い分がある。
まず、消火は本当に難しい。地下でくすぶる泥炭の火は、水をかけても簡単には消えない。インドネシアは今年、6万人以上を消火に動員し、60機を超える航空機を待機させている。
もう一つ。火元とされる農園や植林地の中には、マレーシアやシンガポールの資本が関わる会社もあると指摘されている。煙の出どころをたどったら、出資者の住所はこちら側だった。なかなか笑えないオチである。
つまりヘイズは、どこか一国のせいにして片づく話ではない。煙は国境を気にしないが、お金の流れもまた、国境を気にしないのだ。
商売の目で見れば、「予告付きの危機」
職業柄、ビジネスの目線でも少しだけ。ヘイズは、地震や洪水と違って、だいたいいつ来るかが分かっている危機だ。乾季の終わり、8月から10月ごろ。毎年来ると分かっているのに、毎年なんとなく慌てる。日本で言えば、確定申告のようなものである。
予告付きの危機は、準備した会社としなかった会社の差が、そのまま出る。イベントや屋外の催しは、最初からこの時期を外して組む。在宅勤務やオンライン授業に切り替える基準を、APIの数字で先に決めておく。「180を超えたら在宅」と決めてあれば、当日の朝に会議を開かずに済む。空気清浄機とマスクは、煙が来る前に買う。来てからでは、だいたい売り切れている。
逆に、商機もある。空気のきれいな屋内は、この季節だけ価値が上がる。第2回のピックルボールで言えば、屋根付きのコートより、空調の効いた室内コートが勝つ季節だ。人は屋内に流れ、空気清浄機は飛ぶように売れる。煙は、静かに需要の地図を書き換える。
そしてもう一つ、日本企業にとっても他人事ではない。日本はパーム油の大口の輸入国で、カップ麺の揚げ油から、チョコレート、洗剤まで、身の回りにはパーム油があふれている。火元の農園をたどっていけば、その先の買い手に日本の会社が居ることも、十分にありえる。ESGと言うと固くなるが、要は「その油、どこから来たの?」と聞かれて、答えられるかどうかだ。シンガポールにはすでに、国外の火災であっても、煙の原因を作った企業の責任を問える法律がある。
前の章では、煙の出どころをたどったら出資者の住所はこちら側だった、と書いた。もう少したどると、買い手の住所は日本だった、というオチにもなりかねない。笑えないオチは、早めにつぶしておくに限る。
暮らしている側から
暮らしている側としては、ヘイズの季節には、窓を閉め、空気清浄機を回し、外遊びを控え、APIのアプリを1日に何度も眺めることになる。マレーシアへの移住を考えている方には、「マレーシアには四季は無いけれど、ヘイズの季節はある」とお伝えしておきたい。
救いは、季節が変われば終わることだ。マレーシアの気象局は、モンスーンの切り替わりの時期に入れば、風が弱まり雨が増えて、ヘイズが和らぐと見込んでいる。
今年もこうして、直視できる太陽を見上げながら、雨を待っている。日本の秋は紅葉狩り。マレーシアの秋は、雨乞いである。