マレーシアより愛をこめて 第5回
ガスパール 屋上の席とりに負ける
空飛ぶタクシー、降りる屋上は
ピックルボールに取られていた
IOI City Mallで見たオスプレイ型と、渋滞が減らない話
IOI City Mallの屋根の下に、白い飛行機が止まっていた。最初はセスナかと思った。それくらい大きい。近づいてみると、翼の先には巨大なプロペラが空を向いて付いている。空飛ぶタクシーだ。ただ、この未来の乗り物には、思わぬ強敵が居る。ピックルボールである。今回は、数字もたっぷり添えて、この「空中戦」を読み解きたい。
モールで一番高い展示品
機体の名前は「E20」。操縦士を含めて5人が乗れる、電気で垂直に離着陸する飛行機、いわゆるeVTOLだ。お値段は、報道によれば1機およそ1,226万リンギ。モールで一番高い展示品であることは、まず間違いない。ちなみに開発初期に掲げていた目標価格は700万元前後だった。単純比較は出来ないが、飛行機だけあって、値段も上昇気流に乗ったようだ。
創っているのは、上海のTCab Techという会社だ。創業者のNg Yon Wui氏はペラ州の生まれ。エアバス中国でA350の研究開発を率い、その後、中国の自動車大手Geely傘下の会社で空飛ぶクルマの開発を手がけてきた人物である。10月9日には、セランゴール州の公社SIDECと、E20のマレーシアでの商用化を探るMoUを結び、東南アジアの拠点をセランゴールに置くと発表した。展示は11月9日まで。マレーシア人のエンジニアが、世界で勝負している。なかなか胸の熱くなる話だ。機体はまだ飛んでいないが、話だけは、すでに空を飛んでいる。
なぜ、ドローン型じゃないのか
正直に言うと、最初に思ったのは「なぜドローン型にしないのか」だった。空飛ぶタクシーと聞くと、プロペラが沢山付いた、大きなドローンのような姿を思い浮かべる。わざわざ翼を付けて、プロペラを傾ける仕組みにする理由は何なのか。
調べてみると、答えは距離だった。ドローン型の代表格、中国EHangの機体は2人乗りで、飛べる距離は約35km。一方のE20は、巡航時速260km、航続距離200kmである。
- ドローン型(EHang EH216-S)
- 2人乗り/航続 約35km/最高時速 約130km
- オスプレイ型(TCab Tech E20)
- 5人乗り(操縦士含む)/航続 約200km/巡航時速 約260km
クアラルンプール国際空港(KLIA)から都心までは、50km以上ある。ドローン型は、近所の上空をひと回りするのは得意でも、空港まで行って帰ってくることは出来ない。遠くへ速く飛ぶなら、離着陸はヘリコプターのように、巡航は飛行機のように翼で飛ぶほうが、電池を節約出来る。だから、セスナに見えたのは、半分正しかったわけだ。
オスプレイ型の、損と得
回転翼を傾けて、垂直と水平を切り替える方式は、ティルトローターと呼ばれる。日本では、米軍のオスプレイで知られた方式だ。
得なのは、速さと距離だ。翼で浮いていられるので、巡航中の電気の消費が少なく、ドローン型の何倍も遠くへ飛べる。
損なのは、複雑さだ。プロペラを傾ける機構が増え、整備の手間も増える。そして一番難しいのが、垂直に浮いた状態から、翼で飛ぶ状態へ切り替わる瞬間である。ここをいかに安全にこなすかが、認証の最大の山場になる。離着陸の間は電気を大食いし、音も大きくなる。プロペラは傾けても、会社は傾けない。ティルトローター経営の鉄則である。
それからもう一つ、日本ならではの損がある。「オスプレイ」と聞いただけで、眉をひそめる人が少なくないことだ。名前で損をしている技術、と言えるかもしれない。
世界の空飛ぶタクシーは、いまどこに
では、実際に乗れるのはいつか。世界を見渡すと、先頭を走っているのは中国だ。EHangは2023年に世界で初めてeVTOLの型式証明を取り、観光飛行ですでに乗客を乗せている。米国のJobyやArcherは、2026年中にUAEで初の旅客飛行を目指している。一方、欧州で先行していた2社は、離陸を前に資金が失速し、相次いで経営破綻した。夢の乗り物は、資金を燃やす速さも夢のようである。
中国の本気度は、数字に表れている。中国民用航空局は、ドローンや空飛ぶタクシーを含む「低空経済」の市場規模を、2025年に1.5兆元、2035年に3.5兆元と見込んでいる。中国国内のeVTOLの確定・予定受注は5,000機、300億元を超えたという報告もある。念のため申し上げると、低空経済とは、業績が低空飛行している経済のことではない。
E20は、2025年10月に初の有人飛行を終えた。操縦したのは、創業者本人だそうだ。社長が自分で乗る会社は、だいたい本気である。ただ、マレーシアで客を乗せるには、民間航空局(CAAM)の認証が必要だ。セランゴール州の州首相自身が、そう念を押している。認証の手続きは、まだホバリング中といったところ。「乗れるのはいつ?」の答えは、観光なら中国で、マレーシアの通勤ならまだ先、だろう。
で、渋滞は減るのか
結論から言うと、減らない。ここは数字で見てみたい。
まず輸送力だ。乗客は4人。満員のバス1台分の人を運ぶには、十数往復が必要になる。機体価格を乗客の席数で割ると、1席あたり約300万リンギ。日本円にして約1億2,000万円である。億ションならぬ、億シート。運賃がバスや電車と同じになることは、当分ないだろう。乗れるのは、渋滞の原因になっている大勢の人ではなく、ごく一部の人だ。
逆算するとこうなる。マレーシアが渋滞で失う年間200億リンギがあれば、E20を約1,600機買える。ただし買っても、渋滞はまったく減らない。そもそも、それだけの機体を降ろす場所が無いからだ。
そして天気。マレーシアの午後には、スコールと雷がつきものだ。第4回で書いたヘイズの季節もある。太陽が直視できるほど霞んだ日は、パイロットにとっては前がよく見えない日である。
州首相も、市民がこれを特別な贅沢ではなく、普通の交通手段として受け入れる準備が出来ているかを見極める必要がある、と話している。空飛ぶタクシーは、渋滞を減らす乗り物ではなく、渋滞を飛び越える乗り物なのだ。
では、どこで役に立つのか
それでも、使い道はある。空港と都心の移動。道路のない島への足。急ぎの救急搬送。そして観光だ。TCab Tech自身も、サバ州のタワウからシパダン島などへ30分で運べる、という例を挙げている。船で渡るしかなかった場所に、30分で着く。渋滞のない場所でこそ、実力を発揮する乗り物なのかもしれない。
お金の流れで見ると
職業柄、お金の流れも見ておきたい。当面、お金が動くのは乗客そのものではなく、その周りだ。機体の認証、整備、発着場の建設と運営、パイロットの訓練、保険。ゴールドラッシュで一番儲けたのは、金を掘った人ではなく、つるはしとジーンズを売った人だった、という話と同じ構図である。
マレーシアの航空宇宙産業の売上は、2025年に325億リンギ。政府は2030年に552億リンギを目標に掲げ、その約7割(68%)をセランゴールが担っている。国の航空宇宙産業公社のトップは、航空宇宙と低空経済を合わせて、2035年に1,000億リンギを超える可能性があるとまで話している。空飛ぶタクシーより先に、まず数字が離陸しているわけだ。
E20のモーターをフランスのSafranが供給しているように、部品や電池、素材で入り込む余地は、日本企業にも十分ある。空飛ぶタクシーに乗るのはまだ先でも、つるはしを売る準備なら、今から始められる。
屋上の争奪戦
最後に、話の着陸地点である。空飛ぶタクシーの発着場の最有力候補は、ビルやモールの屋上だ。ところが、その屋上は第2回で書いたとおり、すでにピックルボールのコートに取られつつある。空(そら)を飛ぶための屋上が、空(あ)いていないのだ。
空を飛ぶ前に、まずは屋上をピックルボールから取り返すところから。それまでは、渋滞の中で、のんびり空を見上げていることにしよう。